日本初のノーベル文学賞受賞者であり、「雪国」や「伊豆の踊子」を書いた作家川端康成は昭和47年(1972年)の4月16日に72歳で亡くなりました。
その死は自然死ではなくガス中毒によるものですが、遺書などは残されておらず、現在もはっきりとした原因はわかっていません。
この記事では川端康成の死因をめぐる謎について考察しています。
- 川端康成はガス管を咥えていたか?
- 川端康成の死の原因は?
- 川端康成はどんな作家?
川端康成は本当にガス管を咥えてた?
- 年月日:昭和47年(1972年)4月16日
- 場所:逗子マリーナ本館417号室の洗面所
- 発見者:嶋守敏恵、鹿沢縫子
- 備考①:ガス管を咥えていたとされるが、夫人は否定
- 備考②;常用していた睡眠薬の中毒症状がみられた。
川端康成の死の状況は?
この時、「ガス管を咥えていた」とされていますが、のちに夫人が否定しています。
問題になったガス管は洗面所の入り口のガスストーブの栓から引かれていました。
また、日ごろから常用していた睡眠薬(ハイミナール)の中毒症状が確認され、書斎からは睡眠薬の空き瓶が見つかりました。
さらに枕元には封を切ったばかりの飲みかけのウィスキーのボトルとグラスがありましたが、遺書らしきものは発見されませんでした。

遺書はなかったんだ…
川端の死因はガス自殺と報道されました。
発見されたのは21時45分過ぎの事でしたが、死亡推定時刻は18時ごろとされています。
発見者はだれ?
夜になっても散歩から帰らない川端の様子を探して、逗子アリーナの仕事場に赴いたお手伝いの女性2人が死亡している川端の発見者となりました。
そのうちの1人である鹿沢縫子さんは4月に退職することが決まっており、当日にも川端と夫人から慰留されていたそうです。



縫子さんが慰留を固辞したすぐあとに、川端康成は散歩に出たんだよ…
逗子マリーナってどこ?
川端康成の死の前年、昭和46年(1971年)に竣工しました。
川端は執筆のために逗子マリーナ本館の417号室を購入したそうです。
逗子マリーナは現在に至るまでリゾート施設として営業しており、1980年代後半のバブル景気の頃には、トレンディドラマの定番ロケ地となっていました。
【逗子マリーナ】
所在地:神奈川県逗子市小坪5丁目
川端康成の死の原因は?
遺書がなかったことから「事故死ではないか」という見解もあります。
- ノーベル文学賞受賞後に創作が滞りがちになった
- 盲腸の手術を受けるなど体調が思わしくなかった
- 三島由紀夫の割腹自殺の衝撃
- 親しい者の死が続いた
- 実は鹿野縫子に好意を抱いており、彼女が去るのが耐えられなかった。
- 寝たきりで亡くなった祖父の死にざまへの恐怖
三島由紀夫の割腹自殺


川端は三嶋の葬儀委員長をつとめたそうです。



三島由紀夫もノーベル文学賞の候補になっていたよ。
川端は鹿野縫子に執着したのか
鹿野縫子に川端が執着していたという説は、臼井吉見の小説「事故のてんまつ」に描かれていたようですが、この小説は遺族から名誉棄損で提訴され、和解の際の条件により絶版となっています。



縫子さんが養父に「先生の自殺の原因は私にあるように思う」といったと言う話もあるけど、真偽はわからないんだ。
鹿野縫子さんは後に一般男性と結婚されたようです。
川端の死事故死であった可能性
川端康成はもともと睡眠薬のハイミナールを常用していました。


ハイミナール:エーザイが製造販売していた睡眠薬。「睡眠薬遊び」で濫用されたこともあり、昭和61年9月に販売中止となった
川端の遺体にはこのハイミナール中毒の症状がみられたそうで睡眠薬の誤用による事故死の可能性が指摘されています。



でもわざわざ洗面所に布団まで持ち込んでるのがなあ…
川端康成はどんな作家?


- 伊豆の踊子(1926年)
- 浅草紅団(1929~1930年)
- 水晶幻想(1931年)
- 抒情詩(1932年)
- 禽獣(1933年)
- 雪国(1935~1948年)
- 千羽鶴(1949年~1952年)
- 山の音(1949~1954年)
- 眠れる美女(1960)
- 古都(1961~1962年)
「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」という一節はあまりに有名です。



繊細なひとだったんだろうな
川端康成は妻秀子との間に子供がなく、養女に迎えた政子がロシア文学研究者の山本香男里と結婚して川端家を継ぎました。
まとめ
- 川端康成は昭和47年(1972年)4月16日に72歳で死没した。
- 死亡時の状況からガス自殺ではないかとされている。
- 川端康成は日本初のノーベル文学賞受賞者。
- 死亡時に「ガス管を咥えていた」という事実は夫人によって否定されている。
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