昭和31年(1956年)10月15日に三重県にある国鉄参宮線の六軒駅で大規模な衝突事故が起きました。
この記事はこの事故の概要や、現在明らかになっている原因などをわかりやすく説明していきます。
- 六軒駅衝突事故とは
- 六軒駅衝突事故の原因は?
- 事故の影響は?
- 機関士や駅員のその後は?
六軒駅衝突事故とは

衝突した快速列車は、ともに機関車を重連にして多くの客車をけん引していました。
重連:動力車を2両以上連結して運転する事。より多くの客車をけん引することができる
- 18時22分に下り第243が構内での停車指示を見落として通過速度で構内に侵入
- 構内に入ってから停車指示に気付いて慌てて非常制動をかける
- 列車は安全側線に突っ込み、脱線
- 重連の機関車は線路から外れて畑に転落
- 後続の客車が本線にはみ出る形となる
- 20秒後に上り第246が定刻通りに駅構内に進入
- はみ出ていた下り第243の客車に上り第246が衝突
最初に脱線事故を起こした下り第243は本来は駅構内で停車する列車ではなく、ダイヤ調整のための停車指示を見落としたことが、事故のきっかけになったとされています。
本線にはみ出していた下り第243の客車を、上り第246が破壊しながら脱線転覆した結果、死者42名、重軽傷者94名という大惨事となりました。
参宮線、六軒駅はどこにあるの?
六軒駅は参宮鉄道の駅として明治27年(1894年)に開業しました。
明治40年(1907年)に参宮鉄道が国有化され、明治42年(1909年)に線路名が「参宮線」と制定されます。
事故後の昭和34年に参宮線の亀山から多気間が紀伊本線に編入されたことにより、紀伊本線の駅となり、昭和62年(1987年)の国鉄分割民営化で現在はJR東海の駅となっています。
【六軒駅】
所在地:三重県松原市小津町
事故当日は伊勢神宮の大祭
10月15日は伊勢神宮で最も重要とされている神嘗祭の初日にあたります。
神嘗祭:宮中および伊勢神宮で行われる、伊勢神宮に初穂を捧げる神事。伊勢神宮で最も重要な神事とされている。
そのために朝から大勢の人出があり、列車運行が遅れがちとなっていました。

この遅れのためのダイヤ調整が事故のきっかけとなってしまいました
さらに脱線した下りの快速列車には東京教育大学付属坂戸高等学校の修学旅行生が乗車しており、多数犠牲になる事態となりました。
蒸気機関車ゆえの火傷
事故を起こした列車はどちらも蒸気機関車を重連につないで客車をけん引していました。
この蒸気機関車のボイラーの蒸気が客車内に吹き込んだことで火傷による死傷者が数多く出ました。
蒸気機関車:ボイラー内で水を沸騰させ、高温高圧の蒸気を作り、そのエネルギーでシリンダーを動かして駆動力を得る機関車
ボイラー内では水を200℃まで加熱して飽和蒸気とし、さらに加熱装置を通して350°を超える加熱蒸気とするするため、普通の熱湯よりもはるかに高い温度の蒸気が客車内に吹き込んだと考えられます。
六軒駅衝突事故の原因は?
裁判では事故原因が「機関士の信号誤認」と「駅員の信号操作の遅れ」のどちらであるのかという事が真っ向から争われました。
列車無線のない当時はダイヤの変更を機関士に直接知らせるすべはなく、駅の信号機注意表示が唯一の伝達手段でした。
- 本来のダイヤでは次の松坂駅で行違う予定だった
- 下りが遅れていたため六軒駅での行き違いに変更された
- 運転指令所から変更の指示が六軒駅に伝達された
- 六軒駅はすでに通常の対応をはじめていたのを急遽変更
下り第243が信号に従って六軒駅構内に停車していれば、行き違い変更の連絡を受け取る手はずでしたが、列車は通過速度で駅に進入し、脱線してしまいました。
機関士の証言
信号の表示の切り替えが、下り第243の機関士に確認できたかどうかが問題となり、機関士は確認した時には信号は進行表示だったと証言しました。
捜査結果では信号の切り替えた時にはすでに列車は信号機の確認喚呼位置まで来ていたとされましたが、上り列車が松坂駅をすでに出ている時刻に信号機が切り替わっていないことになるため、捜査結果には疑念が残るとされています。
駅員の証言
直接の物証がない状態で長く争われましたが、結局は機関士の信号誤認が原因であるとの判決が下りました。



この判決には現在も異論があります。機関士の有罪に疑問を持って調査した元機関士の大森一史さんの自費出版本などには、詳細な反論の考証が掲載されています。
明らかになった非常制動の特性
これは2両目の機関車の長さだけ非常制動が伝わることが遅れることにより起こるもので、停車までの距離が100mほど伸びることが確認されました。
この伸びた制動距離によって列車が停まり切れなかったことも、事故の一因と考えられます。
事故の影響は?
- 重連にすると非常制動の制動距離が延びる
- 蒸気機関車の事故ではボイラーの熱闘により重症の火傷を負う
自動列車停車装置(ATS)設置への流れ
機関車を2両以上つないだ場合、非常制動が効きづらくなる現象は明治時代から指摘されていたようですが、この事故の再現実験によってはっきりと確かめられ、主要幹線に車内警報装置を設置する方針が決定されました。
この方針は6年後に起きた三河島事故を機に自動的に列車を停止させるATSへの整備につながりました。
動力近代化計画
この事故では横転していた客車内に乗り上げた蒸気機関車のボイラーから高温高圧の蒸気が吹き込んだために重度の火傷による死傷者が多く出ました。
これは蒸気機関車から電気や内燃動力車へ切り替える動力近代化計画を打ち出すきっかけとなりました。
19年後の昭和50年(1975年)度末までに国鉄の通常定期運行列車から蒸気機関車は全て排除されています。
機関士や駅員のその後は?
事故の責任を争う裁判では最終的に下り第243の機関士と機関助士に執行猶予付きの禁固刑の判決が出ました。
自己責任は信号を切り替えた駅員と機関士の間で争われましたが、そもそも信号の切り替え方法が複雑で、急な変更は難しかったのではないかという指摘もあります。
調べた限りでは事故のきっかけになった急な変更の指示を下した中央指令所が,裁判で責任を問われた様子はありませんでした。



なんかモヤる…
まとめ
- 参宮線・六軒駅衝突事故は昭和31年(1956年)10月15日に発生した。
- 事故には修学旅行生が巻き込まれ、死者42人、重軽傷者94人という惨事となった。
- 六軒駅は現在も三重県松坂市の事故当時と同じ場所にあるが、現在はJR東海の紀伊本線の駅となっている。
- この事故をきっかけに鉄道の動力近代化計画が進み、後のATS設置への流れも生まれた。
- 事故責任の裁判は長く争われ、最終的に機関士が有罪判決を受けている。
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