小泉セツと小泉八雲の馴れ初め!二人の出会いから生涯まで!

イギリスからジャーナリストとして来日し、英語教師となったパトリック・ラフカディオ・ハーンは、日本人の小泉セツと結婚して日本国籍を取得し、小泉八雲と名前を変えました。

この記事では2人の馴れ初めからその後の生涯についてまとめています。

この記事でわかる事
  • 小泉セツと小泉八雲の馴れ初めは?
  • 小泉セツの生い立ち
  • 小泉八雲夫妻の生涯
目次

小泉セツと小泉八雲の馴れ初めは?

小泉セツがパトリック・ラフカディオ・ハーンの家に住み込みの女中として雇われたことが、二人の馴れ初めとなりました。

小泉八雲 – Wikipedia

小泉セツは士族の娘ですが、養子に出された先での結婚に敗れ、生家に戻っていました。

養家も生家も明治維新の影響で没落し、経済的にはかなり困窮していたようです。

セツは家系を支えるために松江に赴任してきたラフカディオの家に住み込みの女中として雇われることになりました。

独身男性の家に住み込みで勤めるのは大変だよね…

結局、2人は半年ほどで結婚したようで、その後の生涯を共にしました。

幸せになれてよかった

小泉セツの生い立ち

小泉セツは出雲松江藩の家臣である小泉家の次女として生まれました。

小泉セツのプロフィール
  • 生年月日:慶応3年(1868年)2月4日
  • 死没年月日:昭和7年(1932年)2月18日
          享年64歳
  • 出身地:出雲松江藩

稲垣家の養女となる

セツは生後7日で親戚である稲垣家の養女となりましたが、子供の頃に稲垣家は没落してしまいました。

11歳の頃からセツは生家である小泉家が営んでいた機織会社で織子と働くようになります。

18歳の時には婿養子を迎えて結婚しましたが、夫は貧しさに耐えかねて1年足らずで出奔してしまいました。

11歳から働いて…こんなのひどいよ!

セツは物語が好きで好奇心の強い子供だったそうで、大人たちからたくさんの物語を聞いて育ちました。

子供の頃にフランスの下士官に遭遇した折も、他の子どもがおびえて逃げる中でフランス人下士官をじっと観察していたそうです。

フランス人下士官はセツを抱き上げて頭をなでた後に、ルーペをくれました。

この体験が八雲との結婚を決意するきっかけにもなったんだって

セツはもらったルーペを生涯大切にしていたそうです。

22歳で離婚、小泉家に戻る

セツは22歳の時に正式に離婚し、稲垣家から小泉家に戻ります。

残念ながらこの頃には生家の小泉家も困窮するようになっていました。

この頃の士族はみんな御維新の影響で没落してたんだ

その後家計を支えるために明治24年(1991年)の2月ごろから、松江に赴任してきた英語教師パトリック・ラフカディオ・ハーンの家で住み込みの女中となって働くようになります。

ラフカディオ・ハーンとの結婚

セツがラフカディオ・ハーンと結婚した日付はわかりません。

1891年の8月11日にラフカディオが友人に出した手紙にセツと結婚したことが描かれていますので、それより前に結婚したのではないかと思われます。

働き出して半年以内くらいには結婚している感じかな?

ラフカディオはセツよりも18歳年上でした

実はラフカディオは日本語が苦手で、セツは英語を習ったもののあまり身につきませんでした。

ただ、ラフカディオが話す片言の日本語をセツは正確に理解できたため、夫婦間の意思の疎通には困らなかったそうです。

ラフカディオの片言の日本語を「ヘルンさん言葉」って呼んでたよ。

小泉八雲夫妻の生涯

セツは夫の小泉八雲の生涯に寄り添い、彼を支えました。

小泉八雲夫妻の生涯
  • 明治24年(1891年):結婚
              11月に熊本に転居
  • 明治26年(1893年):長男一雄誕生
  • 明治27年(1894年):神戸に転居
              ラフカディオが著述に専念するようになる
  • 明治29年(1896年):ラフカディオが日本に帰化
              小泉八雲に名前を改める
  • 明治29年(1896年):東京の市谷に転居
  • 明治30年(1897年):次男巌誕生
  • 明治32年(1899年):三男清誕生
  • 明治35年(1902年):東京の西大久保に転居
  • 明治36年(1903年):長女壽々子誕生
  • 明治37年(1904年):9月26日八雲死去
  • 大正3年(1914年):「思い出の記」出版
  • 昭和7年(1932年):2月18日セツ死去

3男1女に恵まれる

小泉夫妻は3男1女に恵まれました。

長男の一雄は熊本在住の頃に生まれていますが、次男以下の子供たちは東京で生まれました。

次男の巌は4歳の時に母の養家の名を継いで稲垣姓となっていますが、そのまま両親のもとで育てられたようです。

八雲が遺言状にすべての遺産を妻に譲ることを明記して亡くなったため、八雲の死後も子供たちは余裕のある環境で育つことが出来ました

セツは晩年まで暮らしぶりは良かったよ

セツが多くの伝承を「ヘルンさん言葉」で夫に語る

セツは自身が聞き覚えたお話だけでなく、書物で呼んだお話も夫にわかるように「ヘルンさん言葉」で伝えました。

小泉八雲が著した多くの日本についての書物は、こうしたセツの献身的な支えのもとに著述されました。

八雲はセツに本から得た物語でも本を見ずに「語り部として自分の言葉で語る」ことを要求したそうです。

これができるセツさんは賢い人だったんだなあ

夫妻は共に雑司ヶ谷霊園に眠っている

八雲は西大久保に引っ越したころから体調を崩しがちになり、明治37年に54歳で亡くなりました。

セツは夫の死後子供たちを育て上げ、昭和7年に64歳で亡くなっています。

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