カダフィ大佐の死因とは?なぜ殺されたのかわかりやすく解説!

2011年10月20日にリビアのカダフィ大佐が殺されてもうすぐ14年になります。

カダフィ大佐は反政府勢力と抗争中でしたが、そこになぜかNATOが介入してきて殺害されたのです。なぜカダフィ大佐は殺されてしまったのか、ここでおさらいしておきましょう。

この記事でわかること
  • カダフィ大佐の経歴
  • カダフィ大佐の死因は?
  • カダフィ大佐の殺された原因
  • カダフィ大佐の思想
  • カダフィ大佐の家族
  • 結論
目次

カダフィ大佐の経歴

カダフィ大佐は貧乏な家に生まれましたが、最終的にはリビアのトップとなった人物です。

カダフィ大佐の経歴
  • 1942年6月7日生まれ
  • シルト近郊の遊牧民の住む砂漠のテントの中で出生
  • 当時の王制に反意しており、反体制的、反帝国主義だった
  • リビア大学で学ぶ
  • リビア王立陸軍士官学校卒業(卒業時少尉だった)
  • エジプト、イギリスにも留学し軍事訓練を受けている
  • 軍部内での秘密結社活動、王制への反発
  • クーデターを起こし勝利する
  • 国民の生活を改善する
  • 反政府勢力とNATO に殺害される

カダフィ大佐はきちんとした教育を受けており、またほとんどの国民からの支持を受けていたのです。

カダフィ大佐が国民のために行った施策

カダフィ大佐が国民のために行った施策は次のようなものがあります。

  • 所得税なし
  • 医療費、大学卒までの教育費無料
  • 電気代無料
  • 結婚時500万円支給
  • 子供を産むたびに50万円支給
  • 農家に家、土地、家畜、飼料を支給
  • 資源を国民に分け与える(オイルの利益を分ける)
  • 国民全員に持ち家を与えること(途中で死亡)

この施策だけを聞くと、リビアにはオイルがあるのでできることとは言っても、素晴らしい政府のように思えてしまいます。

当時の国連でも、リビアはアフリカで最も教育水準が高く、国民の生活はトップであると発表されています。

そんなカダフィ大佐が殺された時について次に説明します。

カダフィ大佐の死因は?

公表カダフィ大佐の車列にNATOが大規模爆撃を喰らわせ、そこで排水溝に逃げ込んでいたところを反政府軍に捕まり拘束されました。その後拷問にあい、亡くなったと言われています。

反政府勢力との抗争中に銃撃され拷問にあって死んだ

先に述べたようにNATOがカダフィ大佐の故郷付近を移動中の車列に大規模な爆撃を行いました。

そのため排水溝にカダフィ大佐は逃げ込みましたが、反政府軍に捕まり拘束されました。

国際裁判を受けるはずでしたが、反政府軍の独裁者に対する反発、政治的・感情的な復讐心からカダフィ大佐を拷問された結果、亡くなりました。

死後遺体が公開されましたが、非人道的な扱いは国際法違反ではないかと問題視されました。

反政府勢力とNATOとの関係

カダフィ大佐側の政府軍が民間人に空爆を行ったため、国連安保理決議1973が決議され、NATO軍(主にフランス、イギリス、アメリカ)が反政府軍側に立ち空爆・偵察支援を行いました。

当時アラブの春という民主化運動が一体に広がっており、大規模な民主化を求めるデモが行われていたりしたため、それを阻止しようと「外国人に感化された反政府者」と言ってカダフィ政府軍が指示に従わない都市(ベンガジ)に空爆を行ったと言われています。

しかし、彼の独裁体制に対する反感から誇張されて伝えられている恐れが多々あり、真実はよくわかりません。

また、NATO軍は、反政府勢力に情報供与、武器提供、軍事訓練を行いました。

欧米各国は反政府軍を「正当なリビア政府」と認定していました。

NATOの介入理由

西側諸国は、あくまでも民間人保護が目的であると言って軍事介入しました。
表向きの理由実際の理由
民間人保護オイルの利権
カダフィの独裁者政権を潰したい地政学的な再編

リビアの地政学的再建てなんでしょうか。パキスタンのように西側の都合の良いように分けるってことでしょうか。非常に疑わしいです。

カダフィ大佐の死後、リビアは政治的に不安定になり、現在も内戦が続くような状態になっています。

殺害した後は何もしないんですね。なんというか、反政府軍も何を考えているのかという感じがします。

カダフィ大佐の殺害された原因

カダフィ大佐の殺害理由は次のように言われています。

カダフィ大佐の殺害された理由
  • 国際的圧力
  • 反政府勢力の台頭
  • 国民の思想の変化

これらについて細かく見ていきます。

国際的圧力

カダフィ大佐が、自分の指示に従わない都市(ベンガジ)に空爆を仕掛け、皆殺しにすると発言したことから2011年3月、国連安保理決議1973によりリビアに飛行禁止区域を設定します。

NATOを中心とする国々(フランス、イギリス、アメリカ)がリビアに空爆を開始しました。

反政府勢力の台頭

反政府勢力は、国民評議会軍、反リビア反乱軍とも呼ばれます。

初めはベンガジ周辺で政府に反抗する人々が現れました。

当時、アラブの春が広がっており(後半で説明します)それに影響された人々が民主化を希望して、騒ぎ始めます。

以前カダフィ政権で役職を務めていた人たちがカダフィ政権に反発し、警察官や軍の一部に広がります。

そして国民評議会が設立され、この団体が国連やNATOに接触しました。

これは、カダフィ政権崩壊後のリビアを統治する目的で作られたものでした。

しかし、カダフィ政権崩壊後、それは失敗し、現在もなおリビア国内は揉めています。

国民の思想の変化

カダフィ大佐に反発する機運が高まったのは、アラブの春がリビアにも広がり、自由を求める人々が増えたこと、またリビアも民主化すべきだという声が大きくなってきたことが原因です。

カダフィ大佐は40年以上も独裁政権を敷いており、それにうんざりしてきた人たちが出てきたとも言えます。

どんなにいい施策を行っても国民がそれに満足しないのであれば、崩壊するのも仕方ないのかもしれません。

反乱軍側に立った人々が現在のリビアを見て満足しているのか疑問です。

カダフィ大佐の思想

カダフィ大佐は、3つの思想を理想としていたと言われています。

  • エジプトの第2代大統領マール・アブドゥル=ナセル
  • カダフィ流社会主義
  • イスラム教とアラブ民族主義

それではこれらを表すカダフィ大佐の好きな思想について説明します。

ナセル主義

前述した第2代エジプトの大統領ナセルが提唱したアラブ民族主義のひとつで、1950年から1970年に渡り中東や北アフリカに大きく影響を及ぼしました。

ナセル主義の特徴
  • アラブ民族の団結(国境よりもアラブ民族で団結する)
  • 反帝国主義、反植民地主義
  • 社会主義的政策(国有化、貧富の差の是正)
  • 中立外交(アメリカにもロシアにも傾かず独自の道をいく)
  • 反イスラム過激主義(宗教と政治を分けて考える)

これに従って政治を行っていたことがよくわかります。

そのため人々の民主化希望に合わなかったのでしょうか。

カダフィ流社会主義

カダフィ大佐の社会主義は、共産主義の社会主義とは異なり、イスラム的・アフリカ的・直接民主主義的な社会主義としていました。

その思想をまとめた本が、彼が書いた「緑の書」です。

カダフィ大佐の提唱したジャマー・ヒーリア思想を政治の根幹としました。

ジャマー・ヒーリアとは、アラビア語で「大衆のための国家」という意味です。

ジャマー・ヒーリア思想
  1. 議会・政党の否定→代わりに人民会議を全国に設置
  2. 富の共有・国営化・利子の廃止→石油・銀行・主要産業の国有化
  3. 部族・家庭・宗教を重視→西洋的な個人主義否定、女性の教育は推奨
  4. 教育・医療・水・住宅は国家が無料で与えるべきもの
  5. 雇用関係の否定

これが彼の推奨していた社会主義となります。共産主義だけが社会主義ではないのですね。

アラブの春

2010年12月から始まった中東・北アフリカ地域で発生した反政府運動、民主化運動のことで、実際にエジプトとチュニジアでは政権崩壊が起きました。

人々は以下のものを求めていました。

  • 独裁政権への不満
  • 失業・貧困・物価上昇への抗議
  • 汚職・警察の暴力への抗議
  • 表現の自由や民主主義への渇望

これらを得るため、次のようなことが起きました。

  • デモ
  • 暴動
  • 労働ストライキ

これにより成功したことと失敗したことを挙げてみます。

成功したこと失敗したこと
表現の自由を理解し実行政治の不安定化
政治参加意識が起きる内戦と暴力が始まる
SNS普及イスラム過激派の強化(ISIS、アルカイダなど)
NGO、ジャーナリズム、学生運動の活発化経済悪化(貧困が酷くなる)
より強い政治勢力が出てきた

成功した国:チュニジア(民主化に成功する)

失敗した国:シリア・リビア・イエメン(国家崩壊、内戦継続)

成功と失敗両方ある国:エジプト、バーレーン(より抑圧的になり、軍事政権復活)

希望と実際に起こることは全然違いますね。

よく考えて、行動を起こすとさらに悪くなることもあり得るということを知っておいた方がいいですね。

カダフィ大佐の家族

カダフィ大佐は元看護師であった妻と、7人の子供、養子1人を家族としていました。

彼らは大変豪勢な生活を送っていましたが、カダフィ大佐が殺害されてからは生きるのも大変なほどで海外に移住した人も多くいます。家族がどうなったか見ていきます。

妻はどうなったか

サフィア・ファルカル(Safia Farkash)

元看護師、カダフィ大佐とは1960年代に結婚し、7人の子供をもうける。

政権崩壊後は、娘のアィーシャと共にアルジェリアへ亡命、その後すぐにオマーンへ移る。

政治活動を全て辞めている。

子供たちはどうなったか

ムハマンド:カダフィの最初の妻との間の息子で長男。通信事業の責任者をしていました。2011年の内戦で反乱軍に拘束されるが、釈放され、海外へ移民。

サイフ・アル:次男。後継者候補。ロンドン留学し、内戦後に拘束されるが釈放され、現在もリビアで政治活動を行なっています。

アル=サアディ:元プロサッカー選手。イタリアのクラブに所属していた。ニジェールに逃亡後、リビアに引き渡されました。現在は釈放されています。

ムアンシス:軍幹部。政権崩壊後の消息は不明。

ハンニバル:レバノンで妻と共に豪勢な生活を送っていたが、レバノンの聖職者失踪事件に関わっていると考えられており現在拘束されています。

ハミス:最も信頼された息子。軍精鋭部隊の指揮官をしていました。2011年の内戦中に死亡したと言われています。

アィーシャ:弁護士。国際的に活躍していたが、政権崩壊後は母サフィアと行動を共にしています。

養子:ミラスタ出身の男子。何もわかっていません。

現在唯一活動しているサイフ・アル

  • ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス出身
  • カダフィ大佐の死後、国際裁判所から戦争犯罪で起訴されましたが、現在は釈放されています。
  • 2021年の大統領選に立候補しましたが、リビアでは選挙が行われませんでした。
  • 今も彼を支持する人は多く、「リビア再統一の鍵を握る人物」とも言われています。

結論

カダフィ大佐死後はリビアは崩壊して現在も危険な状況になっています。

  • カダフィ大佐が殺されたのは、アラブの春に影響された市民が多く出たため、政権崩壊を目論む人や国から敵視された。
  • NATOが爆撃し、反乱軍に拷問され殺害された。
  • 以後リビアは統一することができずに現在も混沌としている。
  • カダフィ大佐の家族は政権崩壊後、拘束されたり他国へ移民したり、また内戦中に亡くなったり行方不明の人もいる。
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