十月事件と三月事件の違いは?何があったか分かりやすく解説!

十月事件と三月事件は、いずれも1931年に日本の関東軍の一部将校が起こしたクーデター計画です。

三月事件日本の中国侵略の口実を作るための計画
十月事件満州事変に乗じて軍事政権を樹立しようとする計画

どちらも未遂に終わった事件でしたが、三月事件よりも十月事件の方がより過激な行為を計画しています。

なぜこのような事件が起きたのか、時代背景とともに三月事件と十月事件の違いについても詳しく解説していきます!

このような事件の背景には、当時の人々がどうしようもない不況の中で抱いた切実な想いがあったのではないでしょうか?

この記事でわかること
  • 三月事件と十月事件の時代背景
  • 三月事件と十月事件の違い
  • 三月事件とは
  • 十月事件とは
  • 十月事件と三月事件の影響
目次

時代背景

不況下にあった戦前昭和の日本では、軍事による国の立て直しを目指す風潮が強まっていきました。

1931年当時の日本は、1929年世界大恐慌の影響を大きく受けていました。

日本では「昭和恐慌」と呼ばれています。

経済生糸や綿糸の価格が暴落し、養蚕農家の収入が激減。
米価も下落し、農村を中心に深刻な農業恐慌が発生。
産業多くの中小企業が倒産し、失業者が急増。
労働者の生活は非常に厳しい状況となり、大学卒業者の職難も社会問題に。
政府緊縮財政を行いながらも、農村への低利融資や失業救済策、工業合理化を進める。
効果は限定的で不況の改善には至らず。
国際協調を重視する幣原喜重郎外務大臣の協調外交に対し、「弱腰外交」だと批判する声が高まる。

軍部の間で「満蒙(満州とモンゴル)を日本の生命線とし、軍事力で支配を拡大すれば、経済問題が解決する」という考えが台頭していました。

こうした混迷した情勢の中で、三月事件や十月事件といったクーデター未遂事件が起こった背景があると考えられます。
とにかく生きるのに必死だったことが伺えますね。

十月事件と三月事件の違いは?

十月事件と三月事件の違いは、目的と計画の情報管理にあります。

三月事件十月事件
発生時期1931年3月1931年10月
桜会の役割桜会が中心で計画・主導桜会が主導し、右翼活動家と連携
目的議会包囲や首相官邸爆破などで政党政治を打倒し、宇垣一成を首相に据える若槻内閣を倒し、荒木貞夫を首班とする軍事政権樹立を狙う
計画の内容大川周明らのデモや議会包囲を利用したクーデター計画首相官邸・警視庁・陸軍省参謀本部を襲撃し、要人暗殺を狙う直接的武力行使計画
情報管理比較的公然と計画され、動員も困難だった陸軍上層部には秘密にされ、情報漏洩に敏感
結果未遂に終わり、宇垣一成の同意得られず失敗事前に計画が漏れ憲兵隊に摘発され未遂
影響軍内部の不満を反映し軍国主義傾向を強めるきっかけ軍部の急進派の分裂や十月事件後の桜会解体に繋がる

桜会とは?
・日本陸軍の中堅将校たちが結成した秘密結社。
・彼らの目的は、当時の政党政治を倒して軍による独裁的な軍事政権を作ること。
・桜会は政治に強い不満を持ち、橋本欣五郎中佐や坂田義朗中佐らが中心になって活動。

どちらも未遂で終わりましたが、十月事件の方が計画の秘密性と直接的な暴力行使の度合いが強い点が大きな違いです。

三月事件は「公開的にデモで混乱を起こす計画」であったのに対し、
十月事件は「秘密裏に武力で政権を奪う計画」という違いがあることがわかりますね。

三月事件とは

三月事件は、1931年3月20日に計画された日本陸軍のクーデター未遂事件です。

中心人物は陸軍の中堅将校たちが結成した秘密結社「桜会」の橋本欣五郎中佐で、右翼の大川周明らとも協力して計画を立てました。

計画の内容
  • 右翼や労働者を動員した大規模なデモを行う
  • 議会や首相官邸への爆破攻撃などで政党政治を混乱させる
  • 議会封鎖、戒厳令を敷いて政治を掌握
  • 宇垣一成を首相に据える

戒厳令とは?
戦争や大きな災害、暴動などの非常時に、国や地域の統治権を一時的に軍隊に渡し、軍が治安維持や秩序回復を行う特別な命令のこと。
今の日本の憲法には戒厳令を定めた規定はありません。

この計画は最終的に宇垣本人が同意しなかったことや陸軍内部の反対派が強かったこともあり、未遂に終わりました。

事件は秘密にされましたが、後に政界上層部に知られ、大きな衝撃を与えました。

三月事件は軍部による初期のクーデター計画として、軍国主義台頭の重要なきっかけだと考えます。

十月事件とは

十月事件とは、1931年10月24に計画された軍部クーデター未遂事件です。

日本陸軍の若手幹部が中心となって計画したクーデター未遂事件で、別名「錦旗革命事件」とも呼ばれます。

背景として、同年9月に関東軍が満州で起こした満州事変があり、日本政府は不拡大政策をとっていましたが、軍内部の急進派はこれに反発していました。

そこで桜会と呼ばれる若手将校たちが中心となり、右翼の大川周明や北一輝らと協力して、この政府を武力で倒し、荒木貞夫中将を首相とする軍事政権を樹立しようと計画しました。

計画の内容
  • 10月21日に首相官邸の閣議を襲撃
  • 若槻礼次郎首相や幣原喜重郎外相らを暗殺
  • 警視庁や陸軍省など重要施設を制圧
  • 戒厳令を布告して軍が政権を掌握する

計画は事前に憲兵隊に漏れ、10月16日に発覚、10月17日に主導者の橋本欣五郎中佐ら多くの関係者が逮捕され、未遂に終わりました。

首謀者らは軽い処罰で済まされましたが、この事件はその後の軍部内部の対立や、1936年の二・二六事件につながる重要な前兆となりました。

日本の軍国主義が本格化する過程の重要な一幕として位置づけられ、第二次世界大戦へと進んでいくのですね。

十月事件と三月事件の影響

三月事件と十月事件は、日本の政治と社会に大きな影響を与えました。

三月事件と十月事件が与えた影響
  • 軍部の政治介入と勢力拡大
  • 若槻内閣の倒閣
  • 軍国主義と右翼活動の台頭

軍部の政治介入と勢力拡大

三月事件と十月事件事件は陸軍の若手将校たちが政府を武力で転覆させようとしたものです。

事件自体は未遂に終わりましたが、軍部の政治介入が明らかになり、軍の影響力が急速に強まるきっかけとなりました。

これにより、陸軍は政治の中枢に強く関与するようになりました。

ここからさらに陸軍の力が増していくのですね…

若槻内閣の倒閣

十月事件は、若槻礼次郎内閣の倒閣を招きました。

事件後、政治の混乱から若槻内閣は1931年12月に総辞職し、犬養毅内閣へと移行しました.

この一連の動きが政党政治への国民の信頼を失わせる一因となりました。

ついには軍部の力で内閣を総辞職に追い込むとは、ますます影響力が増していると言わざるを得ませんね。

軍国主義と右翼活動の台頭

十月事件と三月事件後、右翼団体の活動が活発化し、1932年の血盟団事件(要人暗殺)、五・一五事件(犬養毅首相暗殺)へと繋がりました。

これらは「軍部に逆らう者は排除する」という空気を作り出し、日本の軍国主義がさらに強まる大きな土壌となりました。

十月事件と三月事件は単なる未遂のクーデターにとどまらず、日本の政治構造の変化を示す重要な転換点だったと言えるでしょう。

まとめ

十月事件と三月事件の違いは?何があったか分かりやすく解説しました。

三月事件から十月事件へとより過激になっていく世論がうかがえますね。

世界恐慌の影響を受けた日本の不況は、軍事主義への大きなきっかけとなっていることがわかりました。

軍部が起こした三月事件と十月事件は、未遂に終わったものの、大きな衝撃を与えたに違いありません。

私たちは戦争という悲劇を繰り返さないためにも、政治のあり方について考えていくべきだと考えます。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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